隼人塚(はやとづか)は鹿児島県霧島市隼人町内山田にある塚。国の史跡。

 隼人塚の由来は、熊襲の祟り鎮めのため和銅元年(708年)に作ったという説と、養老
4年(720年)の隼人の反乱における死者の慰霊のために作ったという説がある。しか
しながら江戸時代の地誌記録『三国名勝図会』によると「隼人塚」は現在の史跡隼人塚
より約4キロメートル北東の国分重久付近にあるとされており、さらに史跡隼人塚から
「旧正国寺蔵石仏」(隼人塚史跡館所蔵、鹿児島県指定文化財)と同じ康治元年
(1142年)の銘を持つ石仏が出てきたことから、現在の史跡隼人塚は平安時代後期に
正国寺(廃寺)の前身寺院として作られたという説が有力になっている。ちなみに正国
寺は『三国名勝図会』によると尼寺であったとされ、大隅国分尼寺後裔という説もあ
る。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  鹿児島神宮に程近い場所にあります、隼人塚。平成の大合併後、霧島市となり鹿児
島で2番目の都市となった隼人町はより一層都市化が進みました。
 この隼人塚周辺もマンションや大規模小売店舗がひしめき合うところとなり、現在は
観光地的な場所となった。




 




 自分の産土神社と関わりのある史跡でありますこの『十三塚原』(じゅうさんつかば
る)はご覧のとおり一面のお茶畑のなかにあります。「こんなところに史跡があるのだ
ろうか?」と思わせるほどののどかの田園風景。しばらく探して見つかりました。



 この『十三塚原』は八幡宮の正当性を争う歴史的舞台跡であります。
私のHP神社参拝記でもご紹介していますが再度その歴史的経緯を簡単にご説明します
と。。。。

 以下は 鹿児島神宮史(Hayato.comより引用)〜

 当宮(鹿児島神宮)を正八幡と云うが故に宇佐から十五人の使者が
来ていずれかが正八幡宮であるかを調べて
遂に当宮に火を懸けた。

所が其の火は七日七夜が間燃えて、七日目に至り、
煙の中に正の字が現れた。

そこで宇佐の者も当宮が正八幡宮であると
承知して帰ったが、その中の十三人は途中で死んだ。
それが十三塚原である。
他の二人は宇佐に帰り、よく物を云うことが出来ず、
只手真似をして絶命した。皆神罰を被ったのである。



 その真偽のほどは分かりませんが、本当であれば歴史を揺るがすようなその証拠とし
て残るこの十三塚原。近くには鹿児島空港があり航空機が飛び交う。昔も今も都へ向か
う玄関口であることには間違えありません。



 これがその象徴である
鹿児島神宮の神楽殿に
かけられている扁額。
八幡本家の正当性を
主張する『正八幡宮』
つまり、正しい八幡宮
本家を主張しています。
 今でもこの様に八幡宮
の総本家は宇佐神宮では
なく『鹿児島神宮』で
あるとしています。