鹿児島県霧島市国分上井の『韓国宇豆峯神社』です。東九州自動車道、国分インター近くであり旧国分市街地からは少し北にあり、田園地帯の広がるのどかな場所に鎮座されております。延喜の制(九二七)小社に列せられている古社でもあります。

御祭神は五十猛神(いそたけるのみこと)。鹿児島では珍しい御祭神です。

それもそのはずこの神社は創建の由縁が豊後地方から隼人の民を教導するために移住した豊後の民が地元神である「韓国神」(五十猛神)を勧請したとされるものであります。

その後、戦国時代の記述によると奉祀三座とあり他に「天児屋根命」(春日大明神)と「日本武尊」(建部大明神)が祀られていたらしいのですが明治に入り姶良郡加治木町の「春日神社」と鹿児島市武町の「建部神社」に遷座されました。

古社らしく様々な郷土史の書物の中にその名が登場する神社であり歴史的証人としてその存在が大きく興味深い神社です。




拝殿左にある石碑。
刻まれている文字は「國威雄(?)揚」でしょ
うか?比較的新しいようです。
拝殿右に小さな池がありそこに渡し石があります。それを渡ると小さな御社二つ。
ひとつは龍神様?もうひとつは「韓国神」?







   



 鹿児島神宮と宇佐神宮。元祖八幡の争いは神社史書に様々に登場します。

その文献は当事者の立場により自分に有利な内容の記述であり、歴史的にもその決着は見ていません。そのことも含め豊後(大分県。県北の一部除く)と薩摩大隅の関係は昔から深かったようです。

 最後まで大和に反発していた隼人族を制圧後、教導するために赴任した豊後の民は200戸、およそ5000人。和銅七年(714年)、すなはち大和朝廷が大隅国設置の翌年であります。今でも5000人といえばかなりのものですが当時の人口から考えるとまさに民族大移動であります。それだけ隼人の反発は脅威だったのでしょうか?

 TOPでも書きましたがこの「韓国宇豆峯神社」はその豊後の民の崇敬神であった「韓国神」を地元から遷座したようです。

通常日本では社名にある「韓国」(カラクニ)はいわゆる「朝鮮」の意味ではなく広く外国の意味をさしますが、この神社の社名もそうでしょうか?

私は違うと思います。なぜなら、この韓国神を豊後の地で崇敬していた民は秦氏の一族で辛島氏?(からしま=辛シン)を中心とした朝鮮半島からの渡来系の民だったとされるからです。韓国神といわれたこの朝鮮の神を豊後から霧島国分の地に遷座したわけです。ですから、正直に韓国神=朝鮮の神様で良いのではないでしょうか。
 

 記紀によると御祭神である五十猛神(いそたけるのみこと)はスサノオノミコトの子供であり、高天原を追放された父スサノオとともに朝鮮の新羅に天降りましたがスサノオが気に入らなかったらしく「この地に留まらず」と言ったのでそこから船に乗って出雲に渡ったとあります。朝鮮半島との関りが示されています。

もしかするとこの御祭神も少しでも朝鮮と関りのある神として五十猛神をあげもとの本来の韓国神(朝鮮の神)とすり替えたのではという気がしてなりません。

 さらに私の大胆な推理!!

鹿児島神宮や宇佐神宮が八幡である意味は神功皇后の『三韓征伐』にも由来しているのではないかと思います。

つまりは朝鮮三国(新羅、百済、高句麗)を制した神功皇后は朝鮮系渡来人秦氏にとっては敵のはず。なぜ、自分の領した土地にその御祭神を祭祀したのか?
その実は当時はまだ弱小であった秦氏系の勢力が朝廷に気を使い御祭神を八幡神として朝廷への忠誠の証としたのでは?
 実際は大分と県境接する福岡県田川郡の香春宮の御祭神と同じ、辛国息長大姫大目命(辛島氏創建神社社の祭神)=比売語曽(ひめこそ)=比売大神ではなかったのか?

因みに香春宮、宇佐神宮、韓国宇豆峯神社、鹿児島神宮(石體神社)のこの四社の共通点は『石體信仰』いずれも上の映像のような石の御神体があります。

話を戻しましょう。宇佐神宮の項でも触れていますが御祭神である比売大神はなぜか拝殿中心に祀られています。文字からも推察できるように、比売語曽=比売大神である可能性は大でありまして宇佐神宮では中心祀られあたかも最主祭神であるかのように思えます。

そして私の大胆推理の最終結論!

宇佐神宮の項でもお話しました仮説と更に今回の仮説とリンクさせて考えると。。 

 宇佐神宮の中心に祀られている御祭神
比売大神韓国(からくに)の女神卑弥呼


つまりは卑弥呼は朝鮮半島からの渡来人かその家系のものであり

北部九州の地を統治した女王であったという事。これどうでしょうか?