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東大寺大仏殿 虹梁(梁木)白鳥巨松の由来

東大寺祭仏殿の大屋根3020トン(大仏8体分)を支えている大虹梁は元禄16年(1703)この白鳥神社より伐出された二本の赤松。
いずれも樹齢は2000年を超えるものであった。

1本目は長さ約24m、元口約1.3m、末口約1m。重さ23.2トンあり樵夫(きこり)90人の手により4日間かかり伐出された。
2本目は長さ約24m、元口約1.2m、末口約90cm、重さ20.4トン 余。100人の人手が、3日間費やされた。

代金は一本2000両。山出しの際は傷がつかないよう両端には金輪がはめられ、霧島山中から薩摩湾岸の国分新川口に至る98.2 kmを一日860人の人夫と牛40頭の号力によって運び出された。
到着するまでには115日の歳月を要し、その間には命を失うもの、怪我をしたものは数しれなかったらしい。
国分新川口からは千石船に積み替えられ、鹿児島湾、日向細島港さらに豊予海峡の急灘を乗り越え瀬戸内海に入り、
兵庫港に着き、大阪伝法川口を経て、また淀川をのぼり、木津川から奈良坂を越えて、ようやく無事に大仏殿に到着した。

延々3,338 kmに及ぶ大運搬であった。

宝禄6年(1709)東大寺大仏殿の落成供経も盛大に行われたが、白鳥巨末は後の大改修を経ながらも大虹梁として今なお東大寺際仏殿を支え続けている。

 以上の文は白鳥神社境内にある案内板に記載された内容に尺寸貫等の単位系をmトン等に置き換えたものです。

鳥居の近くに赤松のあった場所として記念碑が建てられている。もう一本は本殿の奥にそびえていたとされる。
                                      境内の由来書より

 上記、境内の由来書のとおり「東大寺大仏殿」の虹梁(こうりょう)はこの神社の巨大赤松のようです。運搬手段など当時の苦労が偲ばれます。
残念ながら、この地の赤松がなぜ使われることになったかは不明。







   



 えびの市末永の白鳥神社に、神仏習合時代に同社を創建した天台僧、性空(しょうくう)上人の木像が奉納され、23日、除幕式があった。上人が開創した書写山円教寺(姫路市)の大樹孝啓(おおきこうけい)住職らも参列、祝詞と読経で除幕を祝った。
 性空上人は約1000年前の平安中期の人。霧島山で修行し、山全体を神社と寺院が併存する霊場に整えた。白鳥神社も、上人が六観音御池(えびの高原)に建立した観音堂が始まり。
 台座を含めて高さ約2メートルの立像。「郷土の歴史文化を伝承する会」(宮原博久会長)が地元の二ノ宮昇さん(83)、小野侑(すすむ)さん(68)に依頼して制作した。
 新宮敏郎宮司が「性空上人の心を伝えていきたい」とあいさつし、大樹住職は「皆さんに頭の下がる思い」と感謝の気持ちを述べた。【木元六男】

毎日新聞 2007年9月24日

 全国各地に「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)の白鳥伝説はあり各地で語り継がれています。白鳥神社(しろとりじんじゃ 香川県東かがわ市)や大鳥大社(おおとりたいしゃ 大阪府堺市)、建部大社(たてべたいしゃ 滋賀県大津市)などの神社由来が有名です。

 能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、白鳥となって飛び去った日本武尊の霊が舞い降りた、という伝説が残る。当地に降りた白鳥は間もなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王が廟を建て手厚く葬ったという。白鳥神社はこの時に始まるとされている。







   



 冒頭でも書きましたように、地元南九州ではその古い祖先は熊襲や隼人と呼ばれ、大和朝廷に反発していた。
西征で九州に入った小碓命(おうすのみこと)はこの熊襲の長である熊襲武兄弟を征伐に成功しました。この時に誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じたとあります。
その由来からも自分たちの御先祖様であろうはずの熊襲の勢力を鎮圧した日本武尊は当然、『敵』の総大将であり、ツマリは南九州人にとっては親の仇、先祖の仇なのです。
ですから、すすんでこの御祭神を御祀りする神社は少なくましてや主祭神とする神社は数えるほどなのです。ちなみに私のHNである隼風(ハヤチ)は鹿児島神宮境内社「隼風神社」(はやちじんしゃ)からいただいています。御祭神は「日本武尊」です。
こちらの神社は性空上人の修行中に感得した「六観音」の垂迹でありそれが「白鳥権現」で「日本武尊」であるとしています。
 性空上人は地元南九州の人でなく京都の人でしたから。。。。
 いずれにしても記紀神話の世界の話ですが。。。